昭和48年12月27日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」

 信心すれば誰でも受けられるのが御神徳、御神徳ということは神様が信用して下さるというか、神様の信任を篤うするということでしょう。ですから神様の心に添う生き方というものがなされなければならぬ。神様の心に添う生き方というのは、どういう生き方かということ。昨日或る方が、親先生こういう問題のときに右にしたが本当でしょうか、左にしたが本当でしょうかというお伺いがあった。
 そしたらすわりかぶというのですかね、それが私心眼頂くのは綺麗なすわりかぶ、あぁあんなのお漬物にしたら美味しかろうという。ところがその葉っぱが、柔らかそうにこんなに伸びてね、こらもう葉も美味しかろう、根もどっちも美味しかろうというところを頂いた。だからどっちでも良いよとその方には、まあいろいろ御理解させて頂いたが、今日も又そのことを頂いた。
 そしてこの御理解二節を頂きよりますから、どう言う事かというとね、もう根も葉も有難く頂けれるということです。葉も柔らかい根も葉も頂いたところが、葉は固かった根を頂いたところが根には筋があったと言った様な頂き方では駄目なんです。根も葉も有難く頂くということ。それにはねどっちでもよい、どうでもよいという心の状態を作らにゃいけない。ならそういう状態は神様の心に一番適う心なんです。
 昨日桜井先生がここでお届けなさるのに、昨日研修会に福岡教会の方達が、毎月四、五名見えて、一昨日も五名見えた。桜井先生もいつもその中の四人までは、桜井先生が福岡教会に御修行中に懇意にしておられる方達ばっかりだった。帰りがけにそこまで送っておられる時に、一人の信者さんが今、福岡教会で修行しとられる先生がある。桜井先生と同時の頃から、やっぱり修行されておる方らしい。
 まあいろいろ有難い話を聞かしてもろうた。最近親先生がこの様に変わっておいでられる。まあ例えて言うと信心の稽古なら、どこにあんただん行ってもよいばいと言われるそうです、但しおかげだけはここの教会で受けんならんといわっしゃった。信心の稽古はどこに行っても良いという程しに、大きく変わられたと言う事。同時にその現在修行しとられる、もう桜井先生よりも十位多いお方らしてけれども、桜井先生とは永うお目にかからないけれども、いつもお夢の中でお会いしよるという話をしよんなさった。
 そしてその一、二のお夢の話がね、桜井先生がもう一生懸命、水道管の工事をしよんなさるところの、お夢を頂いた。いうなら今日、信心すれば誰でもお徳が受けられる信心とは、どういう事かというと、いわゆる水道管の工事が完備したとき、どこからでもひねれれば、お恵みの水がジャ-と出るようになっとる。同じ金光様の先生でも、お徳を頂かんなんなりに布教に出たところは、一生例えば、もらい水で終わらんならん人も沢山ありましょうね。
 布教に出てから修行をする、布教に出てからお徳を受けるという人も沢山ある。けれどもね、中にはそれこそ一生もらい水で終わる人も沢山あるが、桜井先生の場合では、御夫婦とも教師の資格を頂いているにもかかわらず、いろんな問題の事で合楽に御縁を頂いて、信心の稽古をなさっておられるが、その稽古というのはどういうことかというとね、一生懸命水道管を設置しておられるところを頂く。
 今こそお徳を受けられる、その前提の修行があっておるときだということになる。これは昨日安東さんがお届けをしておられましたが、あちらあたりも随分永い間修行をしておられる。もう親先生任せで商売をして、最近この近所に工場持っておかげ頂いとられるけれどもです、例えば本当に神様の、例えば年末にそうとう纏まったお金が要るとか、もう銀行からはもう大変厳しくて借られない。
 もうどうにも出来ないというときに、もう不思議な不思議な働きがあってから、これだけ使うとけというのが丁度必要な金が、それでも帳面を見ると赤字が出ていると だからその赤字が出ているとか、儲けているというのは問題じゃないわけですね。そしたら昨日お知らせ頂いたのが、もういっぱいのドジョウがね、沢山入っとる器を頂いた。そしてその後にドジョウの化け物のように大きな鰻のような、大きなドジョウにですね、それがもう透き通って見えてね、その中に沢山の子を妊んでおる。
 まあドジョウのような、鰻のようなお知らせを頂いたとこういう。これが生みなしたときがドジョウというのは、土の中にもぐっておっても、お恵みの水がなくても全然辛抱のできれる魚です。それは丁度ね勇さん達、久富勇さん達が一番最初に御神縁を頂いたときがそれじゃった。あの時分は神愛会と言いよったから、貝でお知らせを頂きよった。一番はじめに私が頂いたのは、例えば皆さんが新しい信者さんを導かれると、貝でお知らせを頂きよった。
 この信者の性格とでも申しましょうか、蛤のごたるお知らせを頂くときには、何となく味わいのある信心をしますしね、大きなほら貝のごたるお知らせを頂きますと、この人はもう口ばっかりと言う様に信心が育って行くです。口だけ使われると言った様な感じです。あの勇さんの一番始めに御神縁を頂かれたときには、タニシを頂きました。これはお恵みの水がなかったって、一年位泥の中にいかっとったちゃ生命を保ったものです。
 勿論その時にドジョウのことも頂いた。それはもうその後にでした。水はなかったっちゃ、土の中にいかっとっても、例えば鮎鯉か鮒のようなものであったら、鮎なんか水を離したらすぐ死んでしまうでしようが。それがいけないのじゃないけれども、それぞれの人の在り方とか、性格によって違う。成程今、勇さん達が様々な難儀の中に、しかも夫婦が体が悪いのに、もう医者にどもかかったらもう、どげん重体じゃろうかという状態が夫婦の上にあっておる。
 それでもやっぱり辛抱しぬいて、それでようこれだけの信心が出来という、修行しよんなさったでしょう。やっぱりタニシのようなね、私はお徳をというのはね、私はそういうことを頂きぬけるということが、信心お徳を受けるいわば信心すれはだれでもおかげが受けられる。只拝みよります、参りよりますということではお徳は受けられない。やはり辛抱しぬく。水道工事が終わるまでは辛抱しなければもらい水的なもの、それまではもらい水的なものができる。
 始めからずうっともらい水的なものじゃない。これが出来たあかつきには、どこからひねっても有難いお水がジャンジャン出るということ。そうでしょうね、御神徳というのは、あの世にも持って行かれる、この世にも残るという程しのものですから、いうならあの世でも極楽、この世でも極楽と思える程しのものですから、そんならてんばら易う頂かれるとは思えない。
 おかげはてんばり易う頂きよるけれども、御神徳だから信心とはならそういう信心。それを内容的に申しますとです、葉も有難く頂けれる根も有難く頂けれる、根も葉も有難く頂けれるという信心。それを又の言葉でいうとです、いうなら水のような信心をせよという事なのです。広ければ広く狭ければ狭く何の不足も非ずという所、もう淡々としとる。なら今の安東さんとこといい勇さんといい、その桜井先生方といいです、私はそこんところをそこに引っ掛り、ここに引っ掛りせずに淡々として頂けれる。
 私は信心を身につけにゃいけんけれども、なら今の桜井先生にしても、勇さんにしても、もうそれこそ人の真似の出来んような信心しておられるけれども、そこに引っ掛りここに引っ掛りしてはおらんかということなのです。とにかく有難く頂くためには、大変な修行を感じよりゃせんかということなのです いや、修行じゃなくて苦労を感じよりゃせんかということなんです。
 私どもの信心の椛目時代、またそれ以前のことを思うてみるとです、ああいう修行を淡々として頂いておった事にいつも思いを、ははぁあぁいう信心におかげを受けるんだな、徳を受けるんだなと思うのです。なら私の二十数年前の事を皆さん知っておって下さる方はその通りなんです。まあどうして信心するなら、どうしてこげな貧乏せんならんじゃろうかとか、どうしてこげな馬鹿にならにゃんじゃろうか、どうしてこげなと言う様な所をですね、もう狭ければ狭く広ければ広く、何の不足も非ずで通っておる事を自分に思います。尊い修行です。
 勇さんの現在の修行なんか、とても人の真似の出来んごたる修行です。桜井先生に於いてもしかりです。安東さん達も同じことです。その中に安東さんなんかの場合は真っ向から反対しておられたお父さんがまあ率先してお参りされるようになって来る 子供達も時折はお参りをしてくるようになる。それでも尚且つまだ、神様のおかげというものをそこにもここにも感じておるからこそ、その修行が出来ておる。
 かろうじて出来ておる。けどそれをなら水のような、受け方を出来ていないということ。根も葉も柔らかく頂けていないということ。どうでもよいという心が生まれていないということ。どっちになったっちゃおかげぞという心が頂けていないということ。それをどうならなければほんなこっちゃない。こうなる事がおかげ、こうなることがおかげになるのじゃないという考え方が捨てられなければいけない。
 その福岡の御信者さんが又次に言われた。桜井先生はね。今もうそれこそ百花爛漫と申しましょうか。もう素晴らしい花園の中におられるのですから、私は桜井先生のことは安心しておると、その先生は言われるという事を言うておられる。だからまあ百花爛漫のその花園こそ私は合楽の御広前の事であろうと私は思うた。だからこそ辛抱が出来ているんだということ。
 昨日豊美が突然参りまして、もう合楽というところはね、一歩中に足を踏み入れたが最後です、有難くならせる何物かがあるとこう言う。随分あちこちの教会にお参りするけれどもいくら十巻二十巻と大祓いを上げても有難くなれんのはどうしたことであろうかと、合楽だけはこういうものがあるという意味の事を言うておりましたが、私はやはり合楽はそういう花園だと思うです。
 だからいうならば、御徳の受けられる信心がです出来るんだと。お互いに折角信心させて頂くのですからね、一つ水のような信心をさせてもらおうじゃないか。どうしてこんな窮屈な、どんな窮屈な中にもこれをこうやって通って行くことが出来る。広ければ広いでまた同じこと。そこにせき止められたら又水が溜まるまではずうっと流れに流れてそれを迂回して、水は下に流れていく。
 そこに不平がない。なぜせき止めるか、どうしてこういう窮屈なところを通らせるか、信心しとってもこげな窮屈なところを通らんならんなら、もう、御免だというような心の状態ではなくて、根も軟らかく頂けるなら、葉もまたおいしく頂けるという例えば生き方。それにはね、もうどうでもよいのである。右でなからねばいけないということでなからなければ、左でなければいけないというものでないという事でもない。
 そこんところの頂く心の姿勢こそがです、私は大事であって、そういう信心を身につけたときこそ、信心すれば誰でもお徳を受けられるのじゃないだろうか。特別わざわざ求めなくて、起きてくる自然の働きの中に、どちらへ転んでもおかげと頂くだけの信心、そして例えば楽しいことですねとまあ、桜井先生と話したことですけれども、今一生懸命いうなら水道管の設備があっおる時だと思うたら有り難い。
 それこそ信心はしとっても、ただ貰い水的なことで終わってしまう人がある。そういう信心ではお徳は受けられないということ。自身がいよいよ求めてのお徳を下さろうとする働きがはじまったら、本当にお徳を受けさして頂くいわゆる正面きってその問題と取り組ませて頂いて、そこからどういう心で受けたらそれが有難く受けられるかという。それがすぐ有難く受けられる、そういう生き方を身につけて行く。
 昨日の御理解じゃないですけれども、末永先生がいうように土になりたい、土になりたいという信心なんです。もうそこには実に楽々としたおかげが受けられる。はがゅうしてこたえんというて受けるのじゃない。腹立ってこたえんというて受けるのじゃない。もう土になりたいのだ。それが願いなんだから。じゃから黙って受けられる。土になったばかりにこげなことまで受けんならんということじゃない。
 はじめから土になりたいのだから、しかもそこには大きな願があってのことだから、少し辛抱せんならんところは、こういう大きな願いを立てておるんだ。こういう大きな願いのもとなら、これくらいの修行はもう当たり前のようになってくる信心。大きな願いを持たなければいけない。私共の場合でもそうだったと思うです。今から思うてみると、こういう大きな願いをいわゆる神様のいうならば、忠臣ですね。
 忠義者にお取立頂きたいというくらいな大きな願いをもっておるのですから。やはり問題が問題にならなかったんじゃないでしょうか。お互い問題があまりに問題になりすぎるような感じが致します。折角そういう信心さして頂いておる方達なら、方達ならこそです、葉も根も有難く頂けれる、いうなら水のような信心を身につけて行くという、そういう信心をすれば誰でもお徳が受けられるんだと思います。
   どうぞ。